立川マンドリンクラブ会報 第11号2001.1.8発行



シルクロード特集号

中国とローマのかけ橋“絹”

 中国では、古代から桑の木が育つのに適した土壌をもち、その葉を主食とするお蚕から作られる「絹」は、当時から大変珍重されていました。
 この絹を使ってできる絹織物などは、漢の時代(紀元前200年頃)、中国北方の草原地帯に勢力を張っていた遊牧民“匈奴”への貢物の一つでした。そして、匈奴は、西アジアの異民族との物々交換の品物として、この絹を使いました。
 西アジアの民族から西へ西へと伝わってゆき、ローマからヨーロッパ各地へ絹は伝わって行きました。
 ローマの人たちは、絹は木の樹脂から取れるものと思っていましたが、製法も中国から西下してゆきました。
 しかし、その伝わり方は非常にゆっくりしたもので、ローマまでもたらされるまで、何と800年位かかりました。

ローマ人と “絹”
  1世紀頃の著書「幸福論」(セネカ著)の一節に「絹の服は、身体を保護するどころか恥じらいをも失わせる。服を身に着けていることさえ忘れさせる。・・ 女たちは、寝室で恋人を前にする時も、公衆の面前でも同じ姿しか見せないようになった」とあります。
 このようにもてはやされた絹ですが、ローマでは一時絹の服装が禁止されたことがあります。
 それは、絹そのものが非常に高価であったことで、これを買うため大量の金がローマから流失して、ローマ帝国が衰退する恐れがあったからです。
 しかし、いつの時代でも同じですが、一度火のついた女性の好奇心を消すには法律や規則は無力で、この禁止令は守られなかったようです。
鹿野繁治